宇佐山城跡

8月1日、「滋賀村プロジェクト・いいね滋賀」の一環として、宇佐山城跡にむかう山道に道しるべを設置いたしました。宇佐山は母校である志賀小学校の校歌で歌われるなど、私にとって馴染みの深い山でありながら、これまで山頂まで登ったことがありませんでした。途中、急峻な山道に息が上がりそうになりましたが、山頂から臨める琵琶湖の風景に疲れが癒される思いがいたしました。
 

 

 

 
宇佐山城跡とは?(解説文の抜粋を下記に転載)
 
〇織田信長は、ここ宇佐山城(1570年築城)からの風景を見ながら、坂本城築城(1571年)、安土城築城(1576年)の構想を練りました。
 
〇元亀元年(1570年)織田信長は、京都と湖西路とのルートを確保するために新路(現在の山中越)を作り、森可成(森蘭丸の父)に湖西を監視するために宇佐山城を築城させた。同年、浅井・朝倉連合軍との戦い(志賀の陣)で森可成は討死した。元亀2年(1571年)信長は、明智光秀に近江志賀郡(後の滋賀村、現在の滋賀学区付近)を与え、宇佐山城に入城させた。同年、信長は光秀らに比叡山焼き討ちを命じた。比叡山焼き討ちの直後、光秀は坂本城を築城し、宇佐山城は廃城となった。本丸跡にはテレビ放送塔が建っており、石垣だけが現存している。

 

 

 

 

 
滋賀学区においては、市政100周年記念事業における活動テーマを「いいね滋賀 すごいね滋賀」と定め、これまでの間、長きに渡ってまちづくりが進められてきました。 
近江大津宮の遷都にはじまる歴史や風土について、学区民が実感する機会をもつことは「滋賀学区まちづくり構想」の推進にも資する取り組みであることから、平成30年、市政120周年記念にあたり「滋賀村プロジェクト・いいね滋賀」が組織されました。
 
構成団体:滋賀学区青少年育成学区民会議、志賀小学校はなぞの会(保護者会)、滋賀学区文化協会 協力団体:滋賀学区自治連合会
 
ちなみに滋賀村は、山上村・漣村・錦織村・南滋賀村・山中村・滋賀里村の区域をもって、明治22年に発足。昭和7年に大津市へ編入されています。
 
4月には街道を通る旅人が食したとされる「袖解餅(そでときもち)」の復活を試みるため、メンバーの皆さんと山中町を訪問し、交流を深めさせていただきました。
学区の枠組みを超えた活動を楽しみながら継続していきたいと考えています。

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